★闘病記録★
(この記録は作成当時、記憶や言葉を失った妻の代わりに管理人が書き留めたものです)

  1. 発病編  ・・・・・・・・・・・・ 発症時の状況や事前の兆候

  2. 入院編(手術前) ・・・・・ 手術までの6ヶ月

  3. 入院編(手術後) ・・・・・ 手術後の訓練や病院生活

  4. 入院編(退院直前) ・・・ 退院準備

  5. 自宅療養編 ・・・・・・・・・ 自宅介護や訓練

  6. 現在の症状 ・・・・・・・・・ 意識と運動機能の回復状況

1.発病編                            

平成6年9月22日午前7時頃、ひどい頭痛と痙攣があり救急車を呼んでTI病院へ運んでもらいました。 担当医が来るまで約1時間半待たされて、その後C/Tを撮ったら「クモ膜下出血の疑いがあります。当院は脳外科がないので、TK病院を紹介しますのでそちらへ移ってください」と言われて、救急車で転送されました。
すぐにTK病院で検査をしたら、やはり重症のクモ膜下出血と診断され、皆、愕然としました。

発病の兆候:

発病の約1年前めまい、頭痛でTK病院へ急患で行き、血圧を測ったら200mhgと大変高い値を示しました。 夫が看護婦さんに呼ばれ 「このままじゃ、脳の血管が切れちゃうよ」 と言われたそうです。
そこで、高血圧症の治療に通院することになりました。
肥満気味なので食事療法を指示されたのですが、食べるのが好きな私はちっとも指示を守らなかったので症状はなかなか、改善されませんでした。

平成6年8月初旬にやはりひどい頭痛が続いたのでTK病院へ行ったのですが、なかなか治まらなかったので、知り合いの病院へ行き点滴を打ってもらうことにしたのですが、そこの先生の判断でTI病院への転院を勧められて入院することになりました。 そこでの診断はC/Tの結果で脳に異常は認められないので何かの感染症だろうということで点滴と抗生剤の投与をしてもらいました。3週間ほど微熱が続いたのですが少し良くなったので退院し、自宅で静養することにしました。 しかし、退院して4日後に発病してしまったのです。

最悪の事態になった原因を今から考えると
●高血圧の治癒指示を守らなかった。
●もともとあった動脈瘤に高血圧がかさなった。
●夏の暑さがひどかった。
●最初に入院したときに多分出血していたと思うが出血量が少なかったためC/Tではクモ膜下出血の判断ができなかった。(TI病院の診断ミスと思いたくないので)
●病気の知識が乏しかったのと、「うちに限って」、という甘い考えがあった。


2.入院編(手術前)                     

救急車で運ばれた直後、担当医の先生に「クモ膜下出血です。」宣言されたのを聞いて目の前が真っ暗になりました。 精密検査が始まって結果が出たのは8時間くらい経ってからのことでした。 主人が先生に呼ばれて詳しい話を聴いたのですが、その時は冷静に聴くことができなかったが、とりあえずとても重大な自体であることはわかったようです。

もともとあった動脈瘤が高血圧のために破裂したようです。 出血量が多く、今は大きな刺激を与えると又大出血するので落ち着くまでは手術できないということでした。 手術の日は未定でそれまでが主人にとってとてもつらい日々が続いたそうです。

刺激を与えないように部屋を暗くして、音も立てないようにした部屋で夫は24時間付き添いをしてました。 その間私は点滴を同時に7本くらいぶら下げて死の淵をさまよっていました。 脱水症状が出て脈拍が200位打つ状態が1日続いたり、呼吸停止したり、40℃以上の高熱が1週間くらい続いたり、又2回再出血したりして非常に危険な状態が続きました。
その度に先生や看護婦さんたちが必死に処置をして救ってくださいました。
その間に脳の髄液の循環ができなくなり水頭症になったので、強制循環させるための弁と管を埋め込む手術をしました。
心配のあまり、夜中に主人が病院内をうろついていた時、守衛さんに自殺志願者と間違われて思い留まるように説得されたそうです。とても暗い背中をしていたのでしょう。

12月になって意識は戻ったのですが目が開いているだけでほとんどしゃべることはきませんでした。 何とか家族の名前くらいは言えたので皆はほっとしたようです。

9月に入院して、やっと翌年の2月に手術することになりまずはほっとしました。
手術について先生から説明を受けました。動脈瘤のコブの根元をクリップでコブに血液がいかないようにするそうです。 「傷口はふさがって手術をしなくても良いが再発の危険性は2〜30%あります。手術の危険性は10%程度です。どちらにしますか?」と言われました。
主人は迷わず手術してもらうことにしたそうです。一生病気でびくびくしたくなかったのです。今までに他の患者さんから先生の評判も聞いていたので手術に賭けることにしたそうです。

約半年間、主人は病室に寝泊りをし、子供たちは家で留守を守っていました。(当時長女は中一、長男は小五) その半年間は私も主人も子供たちもそれは大変な思いをしました。(地獄を見た) 夫はあまりにも無我夢中でその間の記憶はほとんどないそうです。


3.入院編(手術後)                     

手術は平成7年2月6日の午前9時から始まりました。だいたい、6〜7時間位ということでした。 しかし、午後9時になっても手術室から出てきません。 多少心配もありましたが先生を信頼していたので出てくるまではじっと待つことにしました。 
やっと、出てきたのは午後11時を過ぎた頃でした。 癒着がひどくて少し手間取ったが手術は成功ということでした。
手術は大成功だったのですが、やはり脳へのダメージが大きく、かなりの後遺症が残りそうでした。 
出血の刺激で脳梗塞が起こったために左半身を制御する脳が壊れて半身は動けなくなりそうです。 また、前頭葉への出血が多かったために意識障害と運動能力回復の遅れがありそうです。あとは水頭症を押さえるための弁の流量調整、痙攣止めの薬量など問題はいっぱいありそうです。

手術の傷も直ってきたので後遺症を克服するための訓練が始まりました。

弁の流量調整がなかなか難しいようで、流れが悪いと脳圧があがって意識がなくなるので流れるように調整をする。すると、今度は流れすぎて脳が小さくなり、また、意識がなくなる。その繰り返しで、症状がよくなると喜び、悪くなると落胆するということが暫らく続きました。 サイクルがだんだんと長くなり、最終的によい位置が決まるのに2〜3ヶ月かかりました。 

次に食事の訓練です。 脳を患った人は嚥下(飲み込む行為)がうまくできない人が多いそうです。私の場合も飲み込みが悪く、むせたり、吐いたりしました。最初は鼻から管を通して直接流動食を胃に入れていました。口から食べられないようならお腹に穴をあけて管で栄養を取るようになるので、口から食べる訓練を始めました。 しかし、なかなかうまくできなくて1時間かけて2〜3口ほどしか取れません。 同室の付き添いの方が経験されたので話を聞くと、好きなものを家で作ってもらったり、根気良く続けるしかないということなのでがんばることにしました。 栄養量が足らないと点滴をされたり、胃に穴をあけないといけないので看護婦さんには十分食べていると”うそ”をついて訓練を続けました。 2ヶ月くらいかけて、なんとか出された食事の3分の1くらいを1時間くらいかけて食べられるようになりました。 その間に肥満体だった私の体型はすっかりスリムになりました。(結果的によかったよかった)

理学療法士による機能回復のリハビリが始まりました。私の担当になったのはO先生でした。 非常に熱心な先生で根気のよい訓練を毎日してくれたのです。 でも、意識レベルも低く、記憶力や根気のない私はほとんど進歩しませんでした。(退院するまでO先生の名前を覚えられなかった) リハビリをはじめて3ヶ月くらいで症状が固定するそうで、半年位して障害者の認定を受けました。(1級)

発症前の記憶はあるのですが5分前のことを忘れてしまうのです。 また、会話の方は聞かれたことには何とか答えられるのですが、私の意志や要求を言うことができません。 痛みや空腹や喉の渇きなどを言えません。 痛い時は私の様子を見て周りの人が察してくれるのです。

 

手術後に大部屋に変わり、いろいろな人と知り合いました。 同様の症状を持った人や同じ悩みを持つ人と交流ができて、強い味方ができました。介護や訓練のアドバイスをしてもらったり、家庭問題の悩みを聞いてもらったりと家族以上のつながりができたように思います。 その方たちとは退院後も連絡を取り合い励ましあったり情報交換をしています。

 


4.入院編(退院直前)                   

「そろそろ治療が終わって安定しているからいつでも退院しても良いですよ」 と担当の先生から言われたのは平成8年の春でした。
退院はまだまだ先だと思っていて心の準備ができていなかったために、たいへん驚きました。
いつかは退院しないといけないのはわかっていたのですが、いざ退院となるとかなり動揺しました。退院した後どうすれば良いかを具体的にはぜんぜん考えていなかったのです。
それから、夫と子供たちで話し合いをしてどうするかを考えたのですがなかなかまとまりませんでした。 ただ、子供たちの同意を得て、施設には預けないで自宅で面倒を見るということだけを決めました。 具体的な計画は少し時間をもらって、その後準備に入るということで、後1年退院を待ってもらうことにしました。 幸い、この話を担当医や婦長さんには快く承知していただけました。

それから大変で、まず、やることは退院後に夫が自宅で私を介護できるかどうかということで、その覚悟ができるまで1ヶ月くらいかかったようです。 覚悟ができてしまえば後は計画を立ててそれを順番に消化していけば良いだけでした。
やはり、自宅介護をする心構えを持つのは大変だったようです。 まだ私は若いので先が見えない長い戦いになるのは目に見えているからです。 それを克服できたのはやはり子供たちが協力してくれるという言葉の力が大きかったのです。

約1年かけて、準備をしました。
市役所の福祉課に相談してどのような補助をしてもらえるのかを教えてもらいました。
 1.ベッドの購入
 2.家の改造
 3.移動用車両の購入
 4.エアーマット
 5.他洗髪道具や排便器具、車椅子への移動装置等
福祉課の方には親切に指導していただき、ベッドの購入や車両購入については特に便宜を図っていただきました。
その後、退院してからも福祉課のかたがたにはこちらの要望にいろいろこたえていただきました。現法では不可能なことも県庁とずいぶん掛け合ってもらいました。(細かい内容は市、公共機関の援助を参照してください)

長くつらい入院生活をなんとか耐えられたのは同じ病棟に入院していた脳外科の患者さんや付き添いの方々に悩みを聞いてもらったり、励まされたおかげです。
又、看護婦さんたちの献身的な看護と明るい対応にどれだけ気持ちが和んだことでしょう。
そして、無事退院までこぎつけたのは命を救っていただいた担当医のT先生のお蔭だと思っています。
しみじみと人の気持ちの暖かさを感じたこの2年半の入院生活でした。

写真は退院の日の前夜に病棟の看護婦さんたちが退院パーティーを開いてくれた時のものです。 こんなことをしてくれるところはあまり聞いたことがありません。なんだか退院したくなくなってしまいました。(変な患者です)
32ヶ月におよぶ入院生活でした。


5.自宅療養編                        

家に帰って退院パーティーを開きました。
私はというと、会話は結構スムーズにできるようになっていて意識レベルもずいぶん良くはなっているのですが記憶力がいまいち、妄想があり、時々とんでもない話をしてしまいます。 でも、家に帰って本当にほっとしました。 家族や父、母がとても喜んでくれました。 半分くらいは私が生きて家に帰れるとは皆思っていなかったからです。
退院して初めてレストランへステーキを食べに行った時は思わず泣いてしまいました。

最初の1ヶ月は主人が役所の手続きや新しい生活に途惑ったりとあわただしくすごしました。
徐々に生活のパターンもでき、主人も家事と仕事と介護に慣れ、落ち着いてきたのは退院して半年位してからでしょうか。

まず、重要なことは常に脳を刺激して、できるだけ”ボー”としないこと。
平日は主人は会社へ行きます。 その間、私の父が家まできてくれます。(実家は車で2,3分) 昼寝をしないように常に話し相手になってくれます。 また、1日中テレビかラジオをつけて無音状態がないようにしています。音楽が好きな私はCDを聞くのが好きです。家ではドレミファ・ドンの女王と呼ばれていました。 特に CHAGE&ASUKA のファンで、ファンクラブに入っていたほどです。

また、毎日何か変化を持たせるように予定を組んであります。 生協で近所の奥さんとのベッド端会議、訪問看護、デイサービス、入浴サービス、リハビリ、脳外科外来と結構忙しい毎日です。(生活パターンについては日常生活を参照)  その合間に主人が散歩や買い物に連れていってくれます。
お風呂も週に2回(隔週1回)はデイサービスで入れます。お風呂大好きの私にとってこれはとてもうれしいことです。入院中は月に一回しか入れませんでした。 入ると湯船のお湯が垢で味噌汁のようになっていました。(汚ね〜)

私は主人が食べさせてくれないとうまく食べることができません。 姿勢や食べるタイミングがあわないとむせたり、ひどい時は吐いたりしました。 最近はそれほどでもないですけど。
だから、昼食時には主人が会社からいったん帰ってきて私に食べさせて、又仕事に戻ります。 年寄りには介護がきついので、主人は大体4時ころには家に帰ってきます。
会社の方々にはわがままを聞いていただいて本当に感謝しています。職場仲間の協力がなかったら、とても在宅介護はできないでしょう!

旅行にも行きました。 車椅子に座っていられるのは2〜3時間程度なのであまり遠くへは行けませんが、非常に良い気分転換と刺激になります。

今では春と夏に年2回行くようにしています。 最初は山ほど荷物を持っていきましたが最近は慣れて「薬さえ忘れなければいいや」という感じです。 問題は介護ベッドを置いてあるところがないのです。ベッドがないと移動や介護がとても大変です。写真は平成11年の夏涸沼にて長女と。

今は周りの人に恵まれてとても快適な寝たきり生活?を送っています。


6.現在の症状                                  

「私は、もうほとんど全快しています。 一人で買い物に行ったり、子供の学校へ面談に行ったりしています。自転車でちょっと遠いところにも行けます。 パートにもカムバックして、またパンを売っています。 記憶力も問題はなく、時々おとうさんがお風呂に入っている時にパンツを持っていくのを忘れるくらいです。」
と、いつも言っているのですが誰も信用してくれません。 手も足も動くのですが皆がいる時は恥ずかしいので動かないふりをしているだけなのに。
妄想が激しいといわれるけどそんなことはないのです。 お医者さんは妄想がひどくなって生活に支障をきたすようなら神経内科から薬を出すと言われましたがそんな必要は全然ありません。

おとうさん :

妄想はひどいけど人に迷惑をかけるわけではないし、記憶力もインパクトのあることはよく覚えるようになりました。 右手は肘から下だけど自分の意志で少し動くようにもなってきました。 少しづつですが確実に進歩はしています。
性格が変わってしまうこともあるようですが、幸い、うちの場合は明るくてギャグ好き、屁理屈コネコネは以前のままです。むしろ優しくなって良くなった様です。
これからも希望を捨てないでリハビリに励んでいきます。 また、できるだけ楽しい、悲壮感の無い介護生活にしていきたいと思います

 

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