発病から手術まで

平成6年9月22日午前6時。 突然襲った激しい頭痛と、痙攣ではじまった満理子の闘病生活。
これは、私たち家族の試練の始まりでもありました。

担当医のT先生から重症のクモ膜下出血で危険な状態だが、今刺激を与えると再度大出血する可能性があるので脳が落ち着くまで手術ができないと言われました。 C/T写真見せてもらったら素人でもはっきり分かる大出血でした。

点滴が7本くらいぶら下がったベッドサイドでの付き添いがはじまりました。
準完全看護なので付き添いは基本的にやらなくてよいのですが、病院が工事中のため集中治療室が使えず、ナースステーションの近くの個室をICU代わりに使っていたのです。 モニターはつけているのですが、何時、何があるか判らないので誰か側についていなければならなかったのです。
意識はなかったのですが、刺激による再出血を防止するために、部屋のカーテンを閉めて暗くし、物音も立てないようにした部屋で24時間付き添っているのはかなり苦痛でした。
その間、何度か痙攣を起こしたり、脱水症状になり脈泊が200くらい打つ状態が1日続いたり、1度呼吸停止もあり危ない時もありました。
舌を噛んで痙攣を起こした時は、指を無理矢理口に突っ込んで噛みきってしまう事を防いだのですが、私の指は食いちぎられそうになり血だらけになってしまいました。
また、42度くらいの熱が2〜3日続いた時、熱を下げるのにベッド一面に氷マクラを敷き詰め、首、両脇、股に氷を挟んで冷やしました。 まるで、冷凍マグロです。 あまりの高熱なので1時間ほどで氷が全部溶けてしまい、その度に全部交換したのです。いくら氷を作っても間に合わず病院中の氷を使いきってしまいました。
再出血も2度ありましたが幸い脳へのダメージは最小限にとどまりました。

昼間は割合人の目もあるので安心なのですが、夜は看護婦さんの人数も減り、目が行き届きにくくなるので、私が常に監視している必要がありました。 ちゃんと呼吸をしているか胸の動きを見、呼吸音を耳を清まして聞いていました。
1ヶ月はほとんど寝られず、食事もろくに摂れなかったので体重が9kg減りました。
満理子の病状や病室の環境で、極限状態が続き、このままでは自分の気が狂ってしまうと思いました。
このままではだめだと気がつき、少し冷静になって居直る事にしました。
いくら心配しても自分ができる事は限られていて、それ以上の事は逆立ちしてもできない。精神的にも肉体的にも少し休ませようと決めました。
そのおかげで少し余裕ができ、家の事や子供達の事、仕事の事などを振り返る事ができるようになりました。

仕事の方にも影響が出てきたので、できる範囲で復帰することにしました。

入院して2ヶ月経ってやっと目を開け、少し反応が出てきました。でも、まだ手術の予定は知らされませんでした。
早く手術をして危険な状態から開放して欲しいと焦る気持ちはありましたが、我慢して先生の指示を待っていました。
11月になって、水頭症の手術をする事になりました。 完全な手術はまだ危険なので、とりあえず管を取りつけ水を外に捨てるような手術でした。
終わったら、頭から管が出ていて、その先に袋がぶら下がっていて、そこに水が溜まるようになっていました。 体中管だらけでとても生身の人間には見えません。
しばらくして、水抜きの管を完全に埋め込む手術をしました。お腹まで管を通し、腹膜に浸透させるそうです。
髄液は1日約500CC作って脳に送られるそうです。その量を正常に循環しないと脳に水が溜まり脳圧があがったり、逆に水を抜きすぎると脳が小さくなってしまうそうです。 頭に埋め込んだポンプでその流量を調整し、脳が正常な大きさを保つようにするのです。 まりこの場合、その循環をすべてポンプでまかなうので調整が非常にシビアで難しかったようです。
流れすぎると脳が小さくなって意識が無くなり、弁を調節し、流れを押さえる。今度は水が溜まってまた脳圧が上がり意識が無くなる。 その間で一時脳の大きさが正常なときは意識がしっかりしている。 ということの繰り返しが続きその周期が段々長くなって、ちょうどよい弁の位置が決まったのです。 最終的に調整をしないで済むようになったのは半年後くらいだったと思います。
(水頭症の関連サイト)

12月になるとかたことですが声が出るようになりました。 最初に家族の名前を言わせると正確に答えてくれました。ほっとして、思わず涙が出てしまいました。
年末には、食事も口から摂れるようになり、順調に回復してきていると思われました。
大晦日になると比較的病状が安定している人は一時帰宅して自宅で正月を迎えます。 病棟の患者の3分の2くらいは帰ってしまいました。
当然、まりこは帰れる状態ではありません。 子供達はまりこの実家に預け、私と満理子は元旦を病院で迎えました。
ひっそりした病棟の廊下の窓から初日の出を見た時、寂しくて涙が出てしまいました。

やっと、2月になって(入院して半年後)手術の予定が決まりました。
先生の説明によると、傷はふさがっているので手術しなくてもよいということです。 しかし、動脈瘤は残っているので再発の危険は30%くらいあるそうです。 手術をすればその危険は無くなるが、手術による危険が10%程度考えられると言われました。
手術をするかしないかの選択を迫られました。
しかし、再発を恐れて一生ビクビクするのはいやだったので、迷わず手術をお願いしました。

手術は2月6日、午前9時からでした。 大体8時間くらいかかるということで、午後5時くらいに終わる予定でした。
時間までは何もする事が無いので、野暮用をすまして夕方に病院に戻り待機していました。 大阪から姉と従兄弟のやっちゃんが来てくれて付き合ってくれました。
しかし、8時になっても出てきません。 ナースステーションにも連絡は入っていないようでした。 執刀している担当医のT先生はとても評判がよかったのでそれほど心配はしていません。 個室だったので病室で夕食を摂って待っていました。
やっと、手術室から出てきたのは午後11時半でした。延々、14時間の手術でした。

先生の説明では、癒着がひどくて手間取ってしまったけど手術は成功したということでした。
ICUに入った満理子にあったら、目も開けて元気そうで一安心しました。
これで、第一段階の難関を突破したのです。
その後、硬膜下血腫を取り除く手術もしました。 合計で4回の手術をしたのです。

まだ、これから後遺症との戦いになるのですが、手術によって大きな危険から回避できたのはT先生のおかげでとても感謝しています。

 

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