病院生活   

1.食事の訓練

入院して半年後に手術を終えて、もっとも心配していた再出血の危険が去りほっとしました。
しかし、水頭症の調整、痙攣止めの薬量の調整などで脳の状態が安定するのにしばらくは治療が必要です。
また、大出血による脳へのダメージが大きく、かなりの後遺症が残ると思われるため、リハビリ訓練がしばらく続きます。
リハビリは手術の前から少しづつベッド上でやっていただいていたのですが、手術後は訓練室に行って本格的に始めました。
担当の理学療法士のO先生はとても熱心な方でじっくりと根気のよい訓練をやっていただきました。
しばらくは脳の状態が安定しなかったため、意識レベルが非常に悪くなかなか進みませんでした。
手術後半年位して少しづつ会話もできるようになり、病状も安定し、これといった治療も無くなりました。
あとは、経過の監視と、リハビリによる回復訓練をするための入院になります。
まず、はじめたのは食事の訓練です。 鼻から管を通して経口流動食で栄養をとっていたのですが、時々、プリンなどの柔らかいものを食べさせていました。 うまく食べるときもあったのですが、よくむせて、ひどいときはむせた後、嘔吐をするときもありました。 嚥下の検査をしたのですが善し悪しはよくわからなかったようです。 そうしているうちに在宅になったときのことを考えて、胃に穴をあけようかと言う話が出ました。 胃に穴をあけてしまうと口から食べられるようになれず、脳への刺激も少なく回復が遅れるという話を聞いていたので、ちょっと待ってもらうことにしました。それに満理子は食べることが大好きなので、せめてそれくらいはできるようにしてやりたかったのです。
また、同室の方でやはり訓練によって食べられるようになった方の話を聞いて決めました。しかし、かなりの工夫と根気が必要だったそうです。
とりあえず、のどの通りをよくするために管をとってもらいました。 これで、必ず口から栄養をとらなくては行けなくなったのです。 最悪、点滴をしてもらえばいいや、と言う気持ちで始めたのです。
スプーン1杯のお粥を15分から20分かけてゆっくり食べさせました。慌てるとすぐにむせてしまうのです。 1時間に3杯くらいの量です。 1食に3時間くらいかけることもありました。 最初は1食にせいぜいスプーンに3〜5杯くらいのものでした。2週間くらいでガリガリになってしまいましたが、看護婦さんには何とか食べているとうそをついて、訓練を続けました。
だんだん、こつがわかってきて、頭の角度や食べさせれタイミング、噛んだ直後にお茶で流し込むといったように工夫をすることで、少しづつ食べる量は増えてきました。また、食材によってむせるものがあるのがわかりました。 パサパサした物や粉っぽいもの。たとえば、魚のたらを焼いたものなどはだめでした。
少しづつ体重も増え食事量も普通に食べられるようになったのは訓練を始めて1年位してからでした。 ただ、その頃はコツがあるので私しか食べさせることができませんでした。 今では誰が食べさせても2人前くらいはぺロッと食べます。(ちょっと太りすぎてしまった)

2.病院の生活

一年以上経つと、入院生活も長くなったので我が家と同じような感覚になっていました。
病棟の看護婦さんの名前も全員覚えてしまいました。
入院当初は満理子の状態も悪く、私の神経もぴりぴりしていたせいで笑いながら処置をしている看護婦さんに腹立ちを覚えることもありました。 しかし、落ち着いて接すると、えてして暗くなりがちの病院で、看護婦さんまで笑わなくなったら気が滅入ってしまいます。
明るい看護婦さんの対応で笑いのある病室になり、心が和まされました。
話をする機会も増え、家庭的な悩みを聞いてもらうこともありました。
息子と付き添いをしていることが多かったので、内緒でお菓子などをもらうこともありました。
退院の前日にはベッドの周りに飾りつけをしてお祝いをしてくれました。 当日の当番の看護婦さんが全員集まって写真も取ってもらいました。
看護婦さん達とは退院後も親しくしてもらい、外来で病院に行った時は必ず病棟へ遊びに行きます。

その頃の生活パターンは、
  午前5時起床、洗濯、掃除、朝食の用意。
  午前7時病院、新聞を読んで一服。
  午前8時から朝食を食べさせる。
  午前9時、出社。
  午前11時半病院に戻り、昼食を食べさせる。その後、又出社。
  午後4時病院に戻る。 6時頃から夕食を食べさせる。
  午後7時帰宅。夕食を作り、食事、後片付け。
  午後8時、病院に戻り、水分、栄養(エンシュアリキッド)補給。 投薬。
  午後9時半帰宅。 入浴。 
  午後11時消灯。
といった規則正しいパターンを1年半続けました。夜は大体、息子も一緒に病院へ行きました。
その間に好きだった煙草も止め、呑みに行くこともなかったので体にはとても良い生活でした。
煙草を止めたのは表向きは喫煙室まで行くのが面倒だという理由でしたが、恥ずかしながらお茶断ちのようなもので好きなものをやめれば願い事がかなうかなと思ってやめたのです。 満理子の回復と娘の更正を願ってのことでした。 まあ、役に立って実現したと思っています。
病室にいる時間が長いので、ベッド周りも暮らしやすいようにしました。テレビの配線を変えて見やすいところに持っていったり、仮眠するために付き添い用の椅子のクッションを良くしたりして工夫すると慣れれば心地よくなるものです。
同じような病気で入院している人やその家族の方たちとも交流が深まりました。 特に同室の人とは家族同様の付き合いになりました。 その頃の病院は長期身入院の人が結構いたのでうちのような2年程度の入院は新米のうちでした。長い人は7年目という人もいました。(今はシステムが変わり長期入院はない) その方たちとの交流は別章で述べます。
快適な入院生活を送れたのは明るい看護婦さん達や同じような病気で入院されていた患者さんとその後家族がいたおかげだと思っています。

3.Nさんとの出会い

その中で家内と同年代の女性で脳腫瘍で入院されているNさんと親しくなりました。
Nさんのご主人も私と同じように付き添いをしていました。 奥さんは手術後の経過が良くリハビリも進んで杖を突いて歩けるようにもなっていました。 
ある日、Nさんも私も泊まりで付き添っているとき、2人で近くの食堂に行って酒を飲む機会がありました。 お互いの病状や境遇を話し合っていると似ている部分が多く、大の男2人が泣きながら酒を飲んでいました。 
しかし、Nさんは私のことを羨ましいとおっしゃいました。 実は腫瘍は全部とれず、奥さんの余命が半年だと宣言されていたそうです。 満理子はまだ直る可能性があるがNさんには望みがないのです。
それを聞くと私は満理子のことをNさんの分も守ってやらなければいけないと思いました。
その後、何度か2人で酒を飲む機会がありました。 奥さんの運動機能がかなり良くなったので退院することになり、うちのベッドへ退院の挨拶に花束を逆に持ってきていただいたのです。 お別れの挨拶をした後、ご主人がそっと「又すぐに戻ってくると思うよ」と言って帰りました。
再入院されたのは、その2ヶ月あとでした。

 

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